来夏月 爽に見る次元の境界線
2010年6月8日 アニメ・マンガ コメント (1)「なんて口の減らない!これだから本物の女は嫌いなんだ!!」
なんと思い切りのよい台詞だろうか。これを本気で口にしたその瞬間その人物は全世界の女性を敵に回すことになるだろう。
来夏月 爽というキャラクターを知っているだろうか。俺の大好きなアニメ”スクライド”に登場する敵キャラの名前だ。最初の台詞も彼の台詞の一端である。簡単に説明すると彼は、自分の特殊能力で自分が理想とする女性を作り出すということを常時やっている、まあいわゆるマジキチさんだ。余談だが最終的に彼は作り出した女性たちにすら意思を持たせたばかりに見放されている。
実はこの来夏月のやっていることは現代のオタクのある意味理想とされることをしている。
すなわち理想の女性の実体化である。
現代の美少女ゲームに分類されるようなキャラクターはまず現実には存在し得ないといっていいだろう。しかし彼のやっていることはどうだろうか。理想の女性を具現化させ侍らせる。まさにオタク達の理想というほかないのではないだろうか。
ただ、彼のやっていることに次元を設定するのは非常に困難であろう。
まず、三次元ーつまり俺達がいる現実を考えてみると、自分の理想に完全に合致する異性など一つまみ存在するか、はたまたしないかのどちらかだろう。
では二次元はどうだろうか。そこには自分の理想は大量に詰め込まれている。しかしそれはあくまで画面の中の話であり実際に存在するわけではない。
それを踏まえたうえで彼のやっていることをもう一度考えてみよう。理想の女性を実体化・具現化させているということに次元を定義付けることは非常に難しい。理想の女性はいない現実ー三次元。自分の理想はあれこそすれ、実体化は叶わない存在ー二次元。彼はこの二つのどちらにも属していないのだ。またどちらに近いのかと問われるとどちらにも近いといわざるを得ない。限りなく三次元に近く限りなく二次元に近い。この矛盾する定義こそが彼の行動を的確に示すことができるのだろう。
また現在のゲームなどでこれに限りなく近しいことをやっているのがご存知”ラブプラス”だろう。俺はやったことはないが、その影響力は現在のオタク社会においては計り知れない。末期にもなると携帯ゲーム端末と結婚式を挙げようとする始末だ。またこういった層を狙ってか昨年12月には都内ケーキ屋で端末とデータの入ったを持参することで購入できるサービスを行っていた店舗もあったようだ。
現在任天堂はNintendo3DSというものを開発しているそうだ。もしそれが実用化されるレベルまで達すると、面白いことに来夏月と似たようなことになるのだ。最近はアバターを代表として3D映画というのが普及している。見たことがあるひとはわかるだろうがあれは左右の眼に別々の映像を送ることでそれを脳内で統合し3Dに見せているという技術だ。これをラブプラスのような恋愛シュミレーションゲームの類とあわせると、来夏月 爽のような状態は擬似的にではあるがいとも簡単に実現できることになる。
さてここで仮に彼の能力のようなものが実現できたとしよう。そうすると何が起こるかについて考えてみたい。まず今以上に仮想と現実の境目を見つけることは極めて困難になるだろう。何せ自分の理想を現実とすることができるのだ。これはもういっそ仮想と現実の境界線などないと言ってしまったほうが至極適切なのではないだろうか。そしてそれと同様にどこまでの影響を及ぼすかが前提の話にはなるが、出生率は確実に下降の一途を辿るだろう。なにせ自分の理想の異性を現実とすることができるのだ。倫理的な問題だったりするものを省けば、苦労して現実の女性に手を出す必要などなくなる。まあ子供作れるようになってるなら話は別だが。
たださすがにここまで技術が進歩してしまうとこれはもう問題だろう。なんらかの境目がなくなってしまうということはその先は往々にして滅亡とか破滅とかそんな響きだけは格好いい言葉が待っていること請け合いだろう。しかし技術者というのはまず技術の進歩を第一に考える者達が多いのではないだろうか。いうなれば仮想と現実の境目をなくそうと躍起になっているのだ。
仮想と現実の境目をなくすということを考えてみると映画”マトリックス”がある。詳しいストーリーなどはあまり覚えていないが、しかしあれはある意味ではっきりと仮想と現実を区別する要素は残っていた。首筋にあるプラグの差込口のようなところから接続することで仮想世界にダイブしている描写がある。あの映画はメインの舞台は仮想世界でありながらその接続の描写が確実に仮想と現実の境界線を引いているのだろう。
そう考えると来夏月は俺達三次元の人間に身をもって教えてくれたのではないだろうか。それを「やっぱり現実にあるのはダメだから二次元に引きこもるべき」ととるか「理想なんて実現してもつまらないから妥協点は見つけるべき」ととるかは人それぞれだろう。他の捕らえ方だってまだまだたくさんあるはずだ。もちろんこの技術の進歩を良く思っている人もいるだろう。より現実に近づくことで臨場感を生み出すという目的も考えられる。しかし最近は若年層のこういった仮想と現実が混ざってしまったことで起こる犯罪なども発生している。SFCなどの頃にそんな犯罪が発生するなど考えられただろうか。技術の進歩する今だからこそ二次元と三次元、仮想と現実の境界線を改めて明確に示すことが必要なのではないだろうか。
なんかえっらそうに書いてるけど要はやることなかったから書いたってだけ。
よんだらわかると思うが結構支離滅裂。
なにやってんだか
なんと思い切りのよい台詞だろうか。これを本気で口にしたその瞬間その人物は全世界の女性を敵に回すことになるだろう。
来夏月 爽というキャラクターを知っているだろうか。俺の大好きなアニメ”スクライド”に登場する敵キャラの名前だ。最初の台詞も彼の台詞の一端である。簡単に説明すると彼は、自分の特殊能力で自分が理想とする女性を作り出すということを常時やっている、まあいわゆるマジキチさんだ。余談だが最終的に彼は作り出した女性たちにすら意思を持たせたばかりに見放されている。
実はこの来夏月のやっていることは現代のオタクのある意味理想とされることをしている。
すなわち理想の女性の実体化である。
現代の美少女ゲームに分類されるようなキャラクターはまず現実には存在し得ないといっていいだろう。しかし彼のやっていることはどうだろうか。理想の女性を具現化させ侍らせる。まさにオタク達の理想というほかないのではないだろうか。
ただ、彼のやっていることに次元を設定するのは非常に困難であろう。
まず、三次元ーつまり俺達がいる現実を考えてみると、自分の理想に完全に合致する異性など一つまみ存在するか、はたまたしないかのどちらかだろう。
では二次元はどうだろうか。そこには自分の理想は大量に詰め込まれている。しかしそれはあくまで画面の中の話であり実際に存在するわけではない。
それを踏まえたうえで彼のやっていることをもう一度考えてみよう。理想の女性を実体化・具現化させているということに次元を定義付けることは非常に難しい。理想の女性はいない現実ー三次元。自分の理想はあれこそすれ、実体化は叶わない存在ー二次元。彼はこの二つのどちらにも属していないのだ。またどちらに近いのかと問われるとどちらにも近いといわざるを得ない。限りなく三次元に近く限りなく二次元に近い。この矛盾する定義こそが彼の行動を的確に示すことができるのだろう。
また現在のゲームなどでこれに限りなく近しいことをやっているのがご存知”ラブプラス”だろう。俺はやったことはないが、その影響力は現在のオタク社会においては計り知れない。末期にもなると携帯ゲーム端末と結婚式を挙げようとする始末だ。またこういった層を狙ってか昨年12月には都内ケーキ屋で端末とデータの入ったを持参することで購入できるサービスを行っていた店舗もあったようだ。
現在任天堂はNintendo3DSというものを開発しているそうだ。もしそれが実用化されるレベルまで達すると、面白いことに来夏月と似たようなことになるのだ。最近はアバターを代表として3D映画というのが普及している。見たことがあるひとはわかるだろうがあれは左右の眼に別々の映像を送ることでそれを脳内で統合し3Dに見せているという技術だ。これをラブプラスのような恋愛シュミレーションゲームの類とあわせると、来夏月 爽のような状態は擬似的にではあるがいとも簡単に実現できることになる。
さてここで仮に彼の能力のようなものが実現できたとしよう。そうすると何が起こるかについて考えてみたい。まず今以上に仮想と現実の境目を見つけることは極めて困難になるだろう。何せ自分の理想を現実とすることができるのだ。これはもういっそ仮想と現実の境界線などないと言ってしまったほうが至極適切なのではないだろうか。そしてそれと同様にどこまでの影響を及ぼすかが前提の話にはなるが、出生率は確実に下降の一途を辿るだろう。なにせ自分の理想の異性を現実とすることができるのだ。倫理的な問題だったりするものを省けば、苦労して現実の女性に手を出す必要などなくなる。まあ子供作れるようになってるなら話は別だが。
たださすがにここまで技術が進歩してしまうとこれはもう問題だろう。なんらかの境目がなくなってしまうということはその先は往々にして滅亡とか破滅とかそんな響きだけは格好いい言葉が待っていること請け合いだろう。しかし技術者というのはまず技術の進歩を第一に考える者達が多いのではないだろうか。いうなれば仮想と現実の境目をなくそうと躍起になっているのだ。
仮想と現実の境目をなくすということを考えてみると映画”マトリックス”がある。詳しいストーリーなどはあまり覚えていないが、しかしあれはある意味ではっきりと仮想と現実を区別する要素は残っていた。首筋にあるプラグの差込口のようなところから接続することで仮想世界にダイブしている描写がある。あの映画はメインの舞台は仮想世界でありながらその接続の描写が確実に仮想と現実の境界線を引いているのだろう。
そう考えると来夏月は俺達三次元の人間に身をもって教えてくれたのではないだろうか。それを「やっぱり現実にあるのはダメだから二次元に引きこもるべき」ととるか「理想なんて実現してもつまらないから妥協点は見つけるべき」ととるかは人それぞれだろう。他の捕らえ方だってまだまだたくさんあるはずだ。もちろんこの技術の進歩を良く思っている人もいるだろう。より現実に近づくことで臨場感を生み出すという目的も考えられる。しかし最近は若年層のこういった仮想と現実が混ざってしまったことで起こる犯罪なども発生している。SFCなどの頃にそんな犯罪が発生するなど考えられただろうか。技術の進歩する今だからこそ二次元と三次元、仮想と現実の境界線を改めて明確に示すことが必要なのではないだろうか。
なんかえっらそうに書いてるけど要はやることなかったから書いたってだけ。
よんだらわかると思うが結構支離滅裂。
なにやってんだか
コメント
某愛+を3DSでやって接吻なんぞかまそうとすると立体に見えるキャラクターの顔の奥に頭突っ込むぜ親方w
さすがに現実と仮想の境界線の話はナウ原稿書いてるから論集にでも載せたら見せちゃるわ